ガンダムSEEDデスティニー最終回すぺしゃる 

激動の70年代・その2

ー革命の条件ー


前項でラクス・クラインの成功、すなわちラクス・ショックについて概説してきた。
ラクス・クラインという個人は、少なくとも組織力・長期計画の立案能力において卓越している。一代の英雄といっても過言ではなかろう。
彼女の独力での綿密な準備によって武闘クライン派ともいうべき集団が形成されたのは事実であるし、その運用においても数億人単位の人命救出に寄与している。
※ここではいわゆるクライン派(シーゲル派・政治集団)と武闘クライン派(ラクス軍・ゲリラ集団)を似て非なるものとして考えている。区別方法はSEED本編でラクスに従ってゲリラ活動をしたかどうか。
※ラクスが天然系のアイドルとしてしか認知されていなかった時代に武闘クライン派内ではラクスをリーダーとした統制が確認されている。こうした信頼関係の構築にはしかるべき手間隙がかかるものと思われる。



一方で生じる疑問がある。ラクスはラクスだから成功したのか?それですべてなのか?
それともC.E.70という時代のラクスだから、世界の覇者たりえたのか?

もちろん、歴史的な背景から才能だけを切り離して考えることそのものがナンセンスである。が、ラクスの成功が時代背景に強力に規定されているならば、同様の条件を満たせばラクスでなくても似たようなアウトプットが得られるものと思われる。
私は『ギルバート・デュランダルがラクス・モデルの継承者である』との仮説を立てた。

ここではラクス・ショックの時代背景的な要因、つまり誰にでも平等であるはずの環境条件の側面から検討してみる。
なお、文章が異様に長いため結論だけ見たい方は次項に進まれたい。


<『ラクス・ショック』の時代的背景>


1:手段 ―技術的背景―
大きな要因として、ガンダムの開発が挙げられる。
モビルスーツが革命的な兵器であるというのは本編でも繰り返し語られている。戦争のスタイルが変わったというのだが、では何が変わったのか?
この点に関しては先行研究が多数存在するので、こちらではあえて触れない。こちらで重要な点でもない。問題はガンダムである。

ここで注目するのは、ガンダムの以下の特性である。
@操縦可能な人間が限定され
A@の人間に限り比較的短期間に習熟が可能
であり(従来兵器と同程度?)
B少人数で絶大な効果を挙げうる

これは銃や核同様、革命的な変化である。既存の軍事的優位が崩され、小国がわずかな努力で大国の軍事力に勝つことができるようになるのだ。(たとえばコートジボワールあたりでもパイロットの頭数さえそろえばアメリカと互角に戦えるといった具合)
C.E.71においてフリーダムとジャスティスが、C.E.73ではデスティニーやインパルスが示したように、極端に強い機体とその乗り手さえいれば、一人でも従来型の軍隊を短時間で殲滅することが可能になったのである。
結果として軍隊の規模が変わり、戦術や戦略も当然変化する。

むろん、長期的にはガンダムもパイロットも大国の方が数を揃えられるようになると思われる。しかしC.E.70年代初頭はまだ、黎明期である。
軍事革命は始まったばかりなのだ。そしてその“革命”のありようをわかりやすく示したものがラクス・ショックだったのではあるまいか。

現代の世界各所で見られるように、資金がそれなりにあれば、テロリストになることも私兵を組織することも、小規模でなら可能である。が、ガンダムの登場により“二人の人間をたらしこむ”ということと“最新兵器の強奪”という比較的容易な元手のみで大陸規模での軍隊を圧倒できるようになってしまった。ガンダムさえ奪えば一発逆転が可能、ないしはパイロットさえおさえれば劇的に状況が変わる、という現象が可能になる。実際、SEEDでもデスティニーでも冒頭で強奪されたガンダムの戦闘力は圧倒的であった。

時代が下ってC.E.73になるとMSの性能分化がますます加速し、従来兵器のように運用されるMSと、決戦用のガンダムとの差別化が図られている。具体的にはテリトリーの防衛、維持のために通常MSが使用され、ガンダムは攻撃や制圧目的で使用されている。会戦時にはガンダム隊の優劣がそのまま勝敗につながっている。

つまり、ただ武力での優位に立ちたければ軍備の拡張と同じかそれ以上に『ガンダムとその乗り手を押さえること』が有効になる。
この条件の変化は、領土を持たず、資金や行動力にも制限を受ける革命勢力やテロリストにこそ非常に有利に働くのではないか?



2:勝利条件の変容 ―C.E.70年代の戦闘―
とはいえ、新兵器の登場は実は決定的ではない。
強力な兵器が出てきても、戦場で直接変化するのは戦場での撃破効率、ないしは進撃のスピードである。戦争の本来目的はあくまで相手の意思(またはその代表者)の打倒にあるから、ガンダムの登場だけでは戦争の勝利には直接結びつかない。『肉の壁が削りやすくなったから敵の本体に近付きやすくなった』という変化に過ぎないのだ。いくらフリーダムが強くても、たとえばザフトの全軍に総がかりされたら相当厳しいはずである。(番組内でその証拠は示されていないが、SEEDデスティニーにおいてアカツキ・ジャスティス・フリーダムを擁したラクスですら『ザフト軍が全部集結するとまずい』との発言をしている)

つまり、ラクスの才覚+ガンダム、だけなら現代的な感覚では『テロリストがありえないくらいに近代的な兵器で武装していたのでアメリカ軍も手を焼いた』程度の戦果にしかならず、最終的に勝つことは不可能なはずなのである。

にも拘らず、ラクスは敗北していない。というよりほぼ完全勝利している。
ラクス・ショックが劇的だったより大きな要因は、戦闘様式の変化にもあるのではないか?

まずこの時代、政治的指導者が軍事的にも最高指揮官になっているケースが多い。SEED本編とデスティニーを通じて、軍事指揮に口を出そうとしなかった指導者はシーゲル・クラインのみである。そして、この『困った政治家』たちは首都(政治的な中心)ではなく軍団主力(軍事的な中心)とともにいる事を大変好む。

一方、軍人の方でもこれを受け入れる土壌ができつつあるようにみえる。たとえばオーブのソガ一佐などはユウナが指揮を執ることを当たり前だと思っていた節があるし、ザフトでは政治家の陣頭指揮が当たり前になった観すらある。この傾向に抵抗しているナタルやトダカが“古い”タイプなのではないか。(ナタルのアズラエルへの反論は筋が通っていたものもあるが、彼女に同調者が現れることはなかった。)

次に、この世界では“なんちゃって騎士道”的な戦いが好まれる。卑怯なことをせず、正面から堂々とぶつかり合うという形だ。たとえばガンダムは戦場での戦闘力が隔絶しているのみならず、本編でフリーダムが示したように補給なしで長距離の単独突撃&拠点攻略も可能なスーパーマシンである。消えたままで80分間も行動(攻撃を含む)ができるブリッツという機体もあった。このどちらも、そのまま敵の本拠への奇襲に用いれば勝利がたやすいはずだが、そのような運用は検討すらされていない。つまり、この時代の人間の価値観にないものと思われる。(だからブリッツも“姿を現して”切りかかっているし、ガーティ・ルーもミラージュコロイドを解いた上で攻撃を仕掛けている。)

この倫理的な影響は戦闘の規模が大きくなっても同様で、列強そろって決戦を好む傾向がある。複数の戦線で同時に戦力を動かすのではなく、戦力をすべて一箇所にかき集めて堂々と雌雄を決するという形だ。無論、この際も搦め手から別の何かを行うというのは原則、禁じ手とされているようである。(C.E.70では会戦時に『別働隊が○○をする』というパターンはついに見られなかったし、C.E.73のプラントへの最初の攻勢時もニュートロン・スタンピーダは核攻撃部隊をなぎ払ったのみで、それ以上の使われ方をしていない)

こうした結果、C.E.70時代の戦争はかなりゲームに近いものとなっている。つまり“盤面(フィールド)”は主力の激突地点に限定され、暗黙のルールが設定され、どちらも、やられたら即敗北となる“キング”(ゴールとたとえても可)を盤上に持つ。一度の会戦で敵の主力を撃滅するだけで、それがそのまま政治的な勝利にもつながるのだ。つまり、戦争に勝ちたかったら敵の主力に戦闘で勝つ準備だけしていれば事が足りてしまうといえる。
そして、この盤上で文字通り規格外の強さを誇るのがガンダムである。つまり、この条件で戦う限り、C.E.73までのラクス軍はほぼ無敵なのである。

※この意味で、SEED本編でアンドリュー・バルトフェルドがキラに向けた問いは非常に高度なものであったといえる。


ここまで見てきたように、新兵器の登場とそれが有効になるような戦争様式、つまり軍事面での変化がラクス・ショックに与えた影響は非常に大きい。ラクス・ショックは一面、軍事革命であるといえる。が、ラクス・ショックにはもうひとつ、より深い側面が存在する。
政治パラダイムの革命としての側面である。



3:国家の凋落 ―コーディネーター・ショック―
ラクス・ショックとはラクスという個人を中心にした少数の人間たちが国家の圧倒している。つまり、個人の結びつきというヨコのつながりが領域国家というタテのつながりに勝ったということである。

C.E.70年代の人間たちには、共通するいくつか傾向がある。
まず第一に、思考能力の低下である。SEEDやデスティニーで何度も議論のシーンが出てくるが、殆どの場合はまず土台になる問題点の正確な理解がなされておらず、そのため論点がずれ、話がかみ合わないまま推移する。当然具体的な結論は出てこない。『○○したら△△になるだろう〜』、という予測が殆ど『そういうけど・・わからない。やってみなけりゃわからないだろう』に置き換わるため、この想像力の低下現象は行動にモロに影響する。C.E.70-73を通じて、“現状がおかしい”と認識したときに人間が取る行動が“逃避”“破壊”“あきらめ”という極めて単純なパターンに大別される。

また、この世界の人間は極めて退廃的である。安易に思考を放棄して他者に同調し、“運命”など外界から来るものに対してはそのまま受け入れるか拒否するか、というイエス・ノーの受動的な判断のみで、自分から工夫をしたり、運命そのものの枠組みを変えたりしようとする働きかけはなされていない。(デスティニープランに対するラクスたちの危機感は『皆が運命を素直に受け入れるものだ』ということを前提にして話が進んでいる。)
C.E.世界の人間にとって未来は常に他者の動向にまず左右されるものであり、自分のなしたい未来をゼロから考え、切り開こうとしている人間が見られないのだ。

このように、人々の思考が極めて受身になっているのである。その結果、行動も世界的に行き当たりばったりになり、この世界の人間たちの“常識”も我々日本人のものとはかなり異なっている。

この人々の思考形態というものは、領域国家の安定性と密接に関わってくる。
現代においての国家の役割は領域内の生活の保障である。わかりやすく言うと“今日と同じ明日が当たり前に来ること”の保障であり、具体的には政治的権利、安全、財産の保障である。この国家の庇護が強いほど、私たちは安心して日々を送り、将来のことを考えることができる。

逆に言えば、C.E.70時代のような思考放棄現象は政情や経済状態が安定しない時代や場所、つまり国家がちゃんと機能せず先行きが不透明な状況下でよく見られる現象である。私も内戦のユーゴスラビアに長期滞在する機会があったが、一般大衆レベルでは“未来や政治のことは考えられない。考えたくない”という風潮が確かに多かった。明日になれば何が起きるのか、実際わからない状態なのである。つまり、ラクス・ショックの時点ですでに国家は満足に機能していないのである。(その意味では福田監督は一面の真実を描き出している。あくまで結果的にだが。)

とはいえ、C.E.時代の国家は現代国家の延長線上にあると考えられる。ただの人種問題や経済問題なら、いや戦時下でもそれなりに解決オプションを持ち合わせているはずである。現に地球連合という世界政府のひながたらしきものも存在する。政府が対応できなくなるほど深刻な問題などあるのだろうか?

ここに、戦争のかなり以前から政府の信用を揺るがしていたであろう問題がある。コーディネーターである。
コーディネーターの出現により、『人間は生まれながらに平等である』という大前提が崩壊した。常人とポテンシャルが大きく異なる彼らををどう扱うのか。たとえば選挙の一票は同じなのか。社会的に待遇が同じであることは平等なのか、不平等なのか。先天的な違いだから、ある意味男女差に匹敵する大問題になる。政治および経済の基本問題である公平性の基準も根底から覆される

加えて、コーディネーターの出現はさらに凶悪な危険をはらんでいる。コーディネーターは外見では区別できないし、申告の義務もない。出現の経緯を含め、存在そのものにヒトが本質的に忌避する欺瞞の要素があるのだ。

このコーディネーター問題こそ、既存の国家システムでは対応できなかった大問題なのではあるまいか。
現実に戦争が勃発しており、SEEDシリーズを通じて両者の間の明確なすみわけもなされていない。なにかあるとすぐに一触即発である。つまり一度崩壊した価値基準がまだ再編されていない先行きが不透明であるほど、目に見えるものにすがるのが人である。だから民衆は過剰に武装し、家族や友人といったヨコのつながりの比重が高まる。一方で、タテのつながりは最高指揮官が直接前線に出なければならないほどに弱まる。(戦場倫理の変容も禁じ手、つまり潜在的な欺瞞への恐怖の裏返しなのではあるまいか?)

それでも連合もザフトも国家の形態をどうにか維持しつつ戦争をしていたが、ここでラクス軍が登場する。国家というタテのつながりからは完全に排除された、ヨコだけのつながりの彼らが国家と互角に戦えた事実。政治・経済的な公平性の維持能力にはすでに疑問が投げかけられているうえに、ここで暴力の独占管理も崩されたことになる。つまり、ラクス・ショックはただの軍事革命ではなく、ヨコのつながりが既存の国家システムの存在理由の最後の牙城を否定できてしまうことを証明してしまったのだ。この点、ラクス・ショックは政治面でも革命でもあったのである。



4:二重革命の条件 ―結びに代えて―

ここまで見てきたように、二重革命とでもいうべきラクス・ショックにはいくつかの前提条件が存在する。つまり、ガンダムという超兵器の登場という技術面での条件がひとつ。それに、コーディネーター・ショックという大問題の結果としての戦争様式の変化、領域国家システムの弱体化といった制度面での条件。共通するのは特定の『個』のもつ重要度が飛躍的に増大したことである。そして、その『個』へのアプローチとしてヨコのつながりがタテのつながりを脅かすほどに強力になっている。

一方で、革命の重要な背景になった『コーディネーター・ショックには既存の国家システムでは対応できない』という問題はラクスも答えを示さないままに残された。

こうした一連の状況に対し、ギルバート・デュランダルはどのようなアプローチで臨んだのであろうか?
次項では議長となった彼がこの条件をどう反映し、何を目指したかという側面から検討を加えてみる。


その3につづく

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